会堂建設設計者の日誌4

< 2019年11月5日 火曜日>

11月3、4日は「恵シャレー軽井沢」で、青葉キリスト教会との合同礼拝が行われた。青葉キリスト教会の皆さんに於かれては、富山聖書教会の新会堂建設をいつも祈りにおぼえて頂いていて、その進捗報告の役目で私も合同礼拝に参加させてもらった。

すこし会堂建設と関係ない話になるが、11月の軽井沢は紅葉まっさかりで、連休と重なったこの日はひどい道路渋滞だった。皆さん目的地を目の前に1時間、2時間と到着時間が遅れていた。

相模原から出発してお昼頃に到着し、ここで昼食の予定だった青葉キリスト教会の皆さんは、3時過ぎに到着して昼食をし、それから2時間くらいでまた夕食になったのは誤算だったかもしれない。

渋滞に巻き込まれなかった私は、施設などをゆっくり見学させてもらう。一人テラスで庭を眺めていたが寒くて部屋に入る。聞けば昨日は気温が2度まで下がったそうだ。それで施設の方にお願いして、部屋の照明など点けてもらい室内の雰囲気を確かめていた。

ここは天井が張られず屋根の骨組み(小屋組)がそのまま見える箇所が多い。どんな照明器具を何処に付けたら小屋組が綺麗に見えるのか?この問題は新会堂建設でとても大切な検討課題だ。会堂建設の進捗報告でも話をさせてもらった事になるが、まとめてもう一度記しておきたい。


上の写真は、「恵シャレー」の喫茶だ。また前ページの礼拝堂、どちらも壁面に間接照明が入っていて、部屋の基本的な設えをつくっている。しかし部屋を実際に使う時、これだけでは明るさが足りないので、天井から照明器具をぶら下げたり、スポットライトを取り付けて明るさを確保している。

すこしマニアックな話にもなってしまうが上写真の場合、壁面の照明を「ひかり」、天井からぶら下がっている照明を「あかり」として区別する。

それは光の『質』という話につながっていて、太陽の光=ひかり、星の灯り=あかり、として光(照明器具)を考えた時、光の色は、太陽光は白っぽくて星は少し赤っぽくて瞬いている、また太陽光は光の当たっている面を見るが、星は光源を同時に見ている・・・などと、具体的な器具選びの時の理由になったりする。さらに、その部屋はどんな使われ方をするのか、考えを巡らす時、例えば仕事の時は昼間をイメージして活動的に上(天井)から蛍光灯のような白っぽく明るい光を・・逆に寝室など眠る時は一日の終わりの夕暮れのように、光源は低く赤っぽい安心感のある落ち着いた光を入れる。

それから、光には影がつきもので、我々はその影法師や写り込んだ景色(光)で物体の奥行きを認識する。「夕焼け小焼け」の歌ではないが、影法師の長さが安らぎのバロメーターになったり、水面に写り込んだ景色に感動する。

光と影、光源の位置、色、形、映り込み、それらが合わさって設えになる。下の写真は建設予定地の昼と夜だが、ここに新会堂が建った時の事を想像してほしい。光は福音。この会堂は地域を照らす大きな照明器具そのものなのだ。

青葉キリスト教会の副牧師、漆間英幸先生と話をさせてもらう機会があった。2017年に新会堂の建設予定地が決まり富山県を訪れた時、(大きな)瓦屋根のお城のような家が多いところだ・・と思ったという。確かにそうだ。富山県でずっと生活していると気付かない事が、とても意味あることに変わっていく瞬間だったりする。

<ローマ人への手紙 12章 5節>

大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

最近ではそうでもなくなってきたが、富山は県外から移住してきた人を『旅の人』と言って、少し区別するような風習がある。色々な人達が入り混じっている東京ならあまり気にならない、ほんのちょっとした違いもここではよく目立つのだ。先の富山の家並みからすると、新会堂はとても目立つ。仏教、浄土真宗の影響の強い県民性においてもキリストの福音はとても目立つ。

そんな中で、この新会堂を建設すること自体が福音伝道(証)ですね。と英幸先生から言われた時、なんだかものすごく報われている気がした。

それから、富山聖書教会の皆さんの合唱。新しい会堂で迎えるクリスマスの為に歌の練習を始めたという。これは祈りではないかと思う。一人ひとりは互いに器官で役割は違うが、キリストにあって一つのからだなのだ。少しずつ歯車が動き出している気がした。

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