< 2019年 11月 21日 木曜日 >
昨日の祈祷会は”ヘブル人への手紙 12:1-2 ”からの学びがあった。
『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。・・・・・イエスから目を離さないでいなさい。』
数年前にクリスチャンになってから、人生観が本当に変わったと思う。一切の『重荷』を捨てて・・・とあるが、(ハッ)と思った時は重荷が取れていて、その時物理的な体重も数グラム軽くなった気がしたほどだ。まぁ、実際にそんな事は無いだろうが、確かな事はそれまで重荷が重荷と気づいてなかった事だ。
右のスケッチはAからEへ時系列で並んでいる。重荷は福音の光に照らされると、朝露のごとくさぁ〜と消えしまう。例えると水面(地域)に投げ入れられた石(礼拝堂)がつくる波紋(福音)。Aで礼拝堂を音符のモチーフとして考え、福音が波紋のように地域に広がる様をイメージをした。
Bになると、礼拝堂に加えて他の諸室も描き加えられ、その大きさ(広さ)や位置関係、同時に外部からどのように見えるかも考え始めている。
C、D、EはBでつくったレイアウトに高さの要素を加え、全体のボリュームや日影、出入口と駐車スペースなど基本的な関係を立体的に考え始めている。
前面道路を車で走ってくると、礼拝堂が真正面に見えてくる。これはここだけの特徴で、何もしなくてもランドマークにもなっている。これを活かさなければもったいない。このころから礼拝堂のモチーフは、音符から街の灯り→ 大きな照明器具へと変わっていった。
そう言う基本的な考え方がしっかりしてくると、構造的な話など、さらに細かい設計を重ねる際にとても役立つ。「礼拝堂は照明器具だから、骨組みも綺麗に見せたいね。」と共通認識を重ねて打合せを持ちやすくなる。(下のスケッチは構造設計者とメールでやりとりしている時のもの)
『自分たちの前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか。』
人生には的外れでない生き方があると教えてもらった。それはイエスから目を離さないでいなさい・・・と言う事だったのだが、そういう人たちが世界中にいて、そんな存在をなんとなくでも認識できたとき、孤独が薄れていく。まさに闇の中に照らされた光。礼拝堂=福音(光)なのだ。
感覚を言葉で表現するのはとても難しい。ただ「人生の的」をゴールや着地点と言い換えた時、それを見据えられる事はとても幸いだ。迷いは薄まり、努力にも身が入ってくる。すると、今まで忍耐が嫌で逃げていた事柄も、逃げずに、なんとか頑張ってみようか!などと思い直せるから不思議だ。それは、その先にゴールを予感できるようになったからだと思う。
そして祈祷会で具体的に、良き施工業者の出会いを祈りあう。まるでマラソンで沿道を走っているとき声援をもらっているような感覚になる。これは素直に嬉しい(感謝)ことだ。