主イエス・キリストは弟子たちを連れてエルサレムに入り、白昼、そこで活動されて夕方には郊外のベタニヤに行って休まれました。翌日、ベタニヤを出られたとき、イエス様は空腹を覚えられました。その時、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれましたが、葉の他に何も見つかりませんでした。
そこで、イエス様はその木に向かって「今後いつまでも、誰もお前の実を食べることがないように」(マルコ11:12~14)と言われました。
この記事に関して、いちじくの実がならない季節なのに、イエス様は実がないと言っていちじくの木を呪うこと自体がおかしいと思う人がいるでしょう。
では、何故イエス様は、いちじくの木を呪われたのでしょうか?
それは、空腹を覚えられた機会を利用して、弟子たちに教訓を与えようとされたからです。
その日の翌朝、イエス様一行が同じ道を通りかかりました。
すると、イエス様が呪われたいちじくの木が根元から枯れていたのです。(マルコ11:20)それを見たペテロは直ぐに思い出してイエス様に「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が枯れています。」と言いました。そこで、イエス様は、この機会を利用して ”神を信じる信仰の重要性“ を説明されました。マルコの福音書11章22~23節に次のように書かれています。
イエスは弟子たちに答えられた。
「神を信じなさい。まことにあなたがたに言います。この山に向かい『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者にはそのとおりになります。」
当時の社会では、”山” は困難なことを象徴して用いられました。”山が動いて海に入る“とは、不可能と思われていた難しい課題が解決することを意味しています。
大切なことは、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると固く信じて神に祈ることです。祈りは神に対する信頼の現れです。
「ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすればその通りになります。」(マルコ11:24)
さらに、イエス様は「立って祈っているとき誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば天におられるあなたがたの父もあなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11:25)と言われました。
神の前に立って祈るときは自分の罪を認めて、神からの赦しを求めなければなりません。自分の罪の赦しを求めるなら、当然、他人に対する恨みがあってもそれを赦してあげなければなりません。
最後に聞かれる祈りとはどのような祈りか考えてみましょう。新キリスト教辞典(いのちのことば社)に “聞かれる祈り” の条件として以下の7項目があげられています。
- 神のみこころにかなう。
- 主イエスキリストの御名によってささげられる。
- 御霊によってささげられる。
- 粘り強さ、挫折せずに、夜昼いちずに、熱心に求める。
- 心を合わせる。大勢であれば一同が一つ心になって祈る。
- 不義を離れ、悔い改める。
- 幼子のように求める。疑いを交えず、確信を持って祈る。
私たちの教会は現在、新会堂建設という課題を持っています。
この地域は、神社,仏閣があちこちにありますが、教会が一つもない所でした。25年前から開拓し、新たなクリスチャンが徐々に導かれ、一つの群れができました。長い祈りの中で主なる神が答えてくださり4年前に187坪の会堂用地を購入することができました。2年前から新会堂建設計画を開始し、概略の設計図も完成し、建築業者も決まりました。
開拓当初はキリスト教と言えば異端扱いをされ排除されることが多かったです。しかし、最近では新会堂建設に理解を示し、期待を寄せてくださる地域の方々も現れました。これまでの歩みを考えるならば、私たちの教会にとって新会堂建設は主の御こころであると確信いたします。更に、新型コロナウイルス感染予防としてソーシャルデイスタンスを確保する上で広い会堂は喫緊の必要です。 今、残された課題は会堂建設資金です。すでに、目標の3,500万円の80%の資金が与えられました。あと700万円が何とか与えられるように、何の疑いも持たずに信仰を持って主なる神に祈り求めて行きましょう。そうすれば必ず与えられるのです。
「ですからあなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」
ホームページをご覧の皆様、是非、新会堂建設のための熱きお祈りとご支援を宜しくお願い申し上げます。皆様の上に主の豊かな祝福がありますようお祈り致します。
(牧師:北林行雄記)