真実の赦しとは マタイの福音書18:21~35

 皆さんの中で毎日“主の祈り”をささげておられる方が多いかと思います。主の祈りの中に「私たちの負い目(罪)をお赦し下さい。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します。」(マタイ6:12)とあります。

 今朝の礼拝において特に“真実の赦し”について、聖書から学びたいと思います。「罪を犯す」とは一般的に法律や道徳に背く行いをすることや、罪とみなされる行為をはたらくことと定義されます。それに対して「犯罪」とは法によって禁じられた行為(違法行為)をはたらくことを意味します。 キリスト教会はイエス・キリストにある信仰の家族であり、信徒同志お互いに兄弟姉妹と呼び、温かい交わりを持てます。ただし、クリスチャンといえども“罪赦された罪人”です。

 そこで、罪について具体的に考えてみましょう。すべての人間は生まれながら“自己中心”という罪を持っています。この性質を備えた私たち人間は、自分より友達など他の人が仕事上で成果を上げ、人々から高く評価されると、内心羨ましくなり、友人を妬むようになります。そして、友人が嫌だと思うことをして苦しめてやろうとの思いが生じてくることがあります。このような思いがあなたの心の内から生じてきたらどうしますか?また、あなたが兄弟から嫌なことを言われたりしたら、どうしますか?

 先程のペテロの質問に対して、イエスは次のように言われました。「私は7回までとは言いません。7を70倍するまでです。」(22節)。当時のユダヤ教会では3が完全数で7は無限数と考えられていました。ペテロは主イエスが赦しに富む方であると承知の上で、「7回まででしょうか?」と質問しましたが、イエスは7を70倍するまで、490回、すなわち「限りなく赦しなさい」と言われたのです。 教会における原則は、兄弟姉妹はどこまでも互いに赦し合い愛し合うことです。嫌なことを言われても、キリストの愛に満たされて赦すことです。ただし、いやなことを言った人は自分も他の人から嫌なことを言われる可能性が十分あることを認識すべきです。一般的に嫌なことをいう人は人々から愛されません。それゆえ、イエス・キリストにある愛を増し加えてくださいと祈ることです。そうすれば、神の愛に満たされ、兄弟姉妹が嫌がることではなく、喜ぶことを言えるようになるのです。

 続いて、主イエスは兄弟姉妹が互いに赦し合うことの大切さを次のたとえで話された。(マタイ18:23~35)。天の御国で、自分の家来たちと清算を行った王の話である。先ず1万タラントの負債のある者が連れて来られた。彼は返済ができなかったので、主君は彼に自分自身も妻子も持っているものすべてを売って返済するように命じた。家来は「もう少し待ってください。そうすればすべてをお返しします。」と懇願したので、主君はかわいそうに思って負債を免除してやった。

 ところが、この家来は自分に百デナリの借りがある仲間の一人に借金を返せと迫り、仲間の一人の嘆願を受け入れず、負債を返すまで牢に放り込んだ。彼の仲間たちは一部始終を主君に話した。そこで、主君は1万タラントの負債を免除された者を呼びつけて、「悪い家来だ。私がお前をあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきでなかったのか。」と言って、主君は怒って負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。

あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、、わたしの天の父もあなたがたにこのようになさるのです。」(35節

 神の愛に触れ、救い主イエス・キリストを信じている皆さん。罪人の私たちを救うために十字架の贖いという大きな犠牲を払って下さった神に感謝し、兄弟姉妹が互いに赦し合い愛と尊厳をもって、主イエス・キリストの御足のあとに従ってまいりましょう。  皆様の上に主の豊かな祝福がありますように!(牧師:北林行雄記)

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