人類の希望の光 ~ イザヤ書9:2,ヤコブの手紙1:1-8

イスラエル人は苦難と闇の中を何度もくぐって来た民族です。何故彼らはそのような目に逢ったのでしょうか。彼らは信仰の父アブラハムを先祖とし、神の選びの民でしたが、プライドが高く、心が頑なで、主なる神の教えに背いてきたからです。しかし、主は愛の神であり、その恵みは変わることがありません。イザヤ書9章2節には「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と書かれています。

イスラエルは紀元前722年にアッシリヤ軍によって占領され、住民はアッシリヤに強制移住させられ、非常な苦しみを受けますが、預言者イザヤは「闇の中に輝く大きな光」の出現を確信していました。歴史的に見れば、イスラエル人の苦難からの解放で、国の再興のことでした。さらに、この箇所は「全人類のための救い主イエス・キリストの誕生」を預言しています。その預言の約700年後に、イエス・キリストは誕生されました。

私たちの生涯において、幾つもの試練がやって来ます。しかし、どんな苦しみの中にあっても、希望があるのです。私たちのために十字架にかかって死んでくださった救い主イエス・キリストがいつも支えてくださり、励ましてくださるからです。それゆえ、堅く信仰に立ち、少しも疑わずに、試練をも喜びとして、忍耐して歩みましょう(ヤコブ1:2-8)。

ーーーつぶやき

ー 私、このイスラエル人の話を聞いて、誰かに似てるて思ったのよね。誰だろうって考えてたら、なんと私の連れ合いと一緒と思ってしまって・・・。あ、思い出すと腹立ってきた。あの頑固オヤジ!

ー (^^;) でも、あなたがやさしくなさると、きっとご主人もやさしくなられますよ。「大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」と書いてあるではありませんか。そのように思われたら如何でしょう。

ー そうでしょうか?つけあがりませんかねぇ。もっともあの人の頭は最初から光が照ってますけどね(笑)ま、クリスマスも近いですから、少しやさしくしますかね。つけあがらない程度に。

ー (;^_^A ぜひそのように!

イエスを土台として

ーーー今日の説教

「主イエスを土台にして」 コリント人への手紙第一3:10~15

教会はイエス・キリストを信じた人々の群れです。使徒パウロは命を賭けて福音宣教と教会形成をしましたが、今朝、その働きの大切なポイントを考えてみましょう。

  • 賢い建築家のように土台を据えた。その土台はイエス・キリストである(Ⅰコリント3:10-11)。教会はイエス・キリストを土台にして建てあげられるべきもの。
  • 建て方はそれぞれ異なるが、やがて各人の働きが明瞭になる時が来る(同3:12-14)。
  • 建物が消失しても、その人は助かる(同3:15)。キリストを土台にしているから。

木、草、藁は焼けるが、金や銀、宝石は残る。

それでは、私たちが地上生涯で行った業で神の裁きの座で最終的に残るものは何でしょうか。「金、銀、宝石」は何を意味しているでしょうか。

一般社会でいう輝かしい業績でしょうか? そうでは、ありません。

そこで、教会は「キリストを土台として建てられている」ことに、着目してみましょう。

教会はクリスチャンの群れです。キリストの十字架の贖いによって救われた人たちの集まりです。教会の中で大切なことは、私たちを救ってくださった神の業です。

それゆえ、第一にすべきことは、神の業に感謝して、神を愛し、神を賛美することです。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:32)。

第二に、自分が神によって赦されたことを覚えて、兄弟姉妹がお互いに赦し合うことです。

続いて、使徒パウロの生き方に注目してみましょう。

第二テモテ4:7~8には

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれでも授けてくださるのです。」

パウロは輝かしい経歴を持っていました。今で言えば、東大を卒業して国会議員になった人です。しかし、そのような経歴も「イエス・キリストを知っていることのすばらしさ」に較べたら、塵芥のようなものであると宣言し、ひたすら福音宣教のために人生を奉げた人です。私たちも、神様のために自らの賜物を用いて、奉仕することはすばらしいことです。

そして、パウロの偉大なところは、苦難にさらされても勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したことです。

私たちも、パウロに習って神の御心に従った生き方をしたいものです。

皆さん、たといどんな環境の中に置かれても、主キリストに従って、忠実に信仰を全うしましょう。

ーーー今日のざわつき

ーイエス様を土台に?あらま、恐れ多い。

ーいや、別に踏み台にしているわけでは・・・。基本というか基準というか、そんな意味なんじゃないですか

ーあら、そうだわよね。びっくりした(^-^; あ、それからね、金銀宝石で家建てるって、本当ですか?そんな人います? 私思うんですけどね、あなた、そんなもので建てたら、第一泥棒が来て大変じゃないですか?!ま、余計なお世話ですけど・・・。

ーあ、なるほどぉ、そうですね。確かにそんな人はいないでしょうね。多分、言いたいのは、固いしっかりした信仰を持つということだと思いますよ。

ーそうなの? もっと分かり易くパウロさん喩えてくれないかしらねぇ。あなたどう思われます?

ーえ? あ、ハイ。いささか同感です。

ーいささか同感?

ーあ、いえ、若干同感?あ、いや、そうですね、そういう感想もないこともない、と・・・(-_-;)

わたしの目にはあなたは高価で尊い

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43:4f

これは、バビロン捕囚によって苦難と屈辱の中にあるイスラエル民族にその開放と自国の回復を予告し、慰めと勇気を与える箇所です。

「イスラエル民族か、自分には関係ない」と短絡的に思わないでくださいね。イスラエル民族をご自分と読み替えると、人生必ずしも順風満帆である時ばかりではないと思い当たりませんか?そんな逆風とも言えるとき、孤独を感じたり、ときに絶望したり、或いはしそうになったりすることもあるのは認めざると得ませんよね。自分にはどうしようもないときもありますよね。

今日、私たちは”何が起きるか分からない”時代に生きています。異常気象による天災もありますし、人間の尊厳を挫く戦争、そんなに大きくなくても様々な事件を毎日のニュースが伝えています。不安は尽きません。

そういう時私たちを落ち着かせ、不安の中、前に進ませる勇気をもつにはどうしたらいいでしょう。

そういうあなたをきちんと見ている方がおられると思うだけでも力が湧いてこないでしょうか?そういう方こそ信ずるに足る方だとは思われませんか?神とは、イエス・キリストとはそういう方なのです!

で、ここから教会のざわつき、

そうはいっても「高価」って、なんか値踏みされてるようで、ちょっとねぇ。そりゃあんた、わたしゃ安もんですよ。高価とはお世辞にも言えません。安いけど、それでも尊いと言われたら、私ちょっとホッとするんだけど・・・。これ、わしのわがままかねぇ。え?そう?(-“-;A …アセアセ

 

ことばは神と共にあった ヨハネの福音書1:1~5

 本日からヨハネの福音書の学びを毎月開始します。この福音書はイエス・キリストの12弟子のひとりであるヨハネによって書かれたものです。ヨハネは“雷の子”と呼ばれるほど、気性の激しい人でした。彼はペテロと共にエルサレム教会の指導者のひとりとなりましたが、晩年は迫害により捕らえられ、パトモス島に島流しになりました。ヨハネの黙示録はそこで執筆されたものです。また、ヨハネの福音書は彼が90歳近くになったときに執筆されたと言われています。その頃はすでにマタイ、マルコ、ルカの三福音書は出来あがっていたと思われます。そこで、ヨハネは他の3つの福音書にはない出来事や主イエスのことばなどを多く記載しました。

 「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1節)。

皆さん、この“ことば”は何を指しているか、直ぐに判られるでしょうか? この“ことば”はイエス・キリストを指しているのです。ヨハネの福音書にはイエス様の御降誕の記事はありません。この福音書においては、イエス様は初めから万物の創造主なる神と共におられた方であり、万物の創造の御業にも参画された方であると述べられています(3節)。 

原語の聖書では、この“ことば”とはギリシャ語のロゴスです。ロゴスは「知恵、英知」と訳され、重い“真理のことば”をさします。それゆえ、イエス・キリストのことばは真理であり、神のことばです。

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4節)。神の“ことば”によって人間のうちに注ぎ込まれたこの“いのち”は単に肉体的、動物的ないのちではなく、人間として生きる人格的、霊的な機能を生み出す(源泉となる)いのちを意味します。神を礼拝し、神と交わることのできるいのちです。何と素晴らしいことでしょう!

 

 人の光となるいのちとは何のことでしょうか?このいのちは「主イエスを信じる者に与えられる永遠のいのちのことであり、肉体が死んでも生きるいのちです。」つまり、ヨハネの福音書11章25節にある「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」に示された“いのち”、すなわち、イエス様が復活されたように、信じる者も肉体が滅んでも、霊的に、永遠に生かされるのです。

 “光”とは、詩篇36篇9節「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、わたしたちは光を見るからです。」とあります。つまり、イエス・キリストにある光のことです。私たち人間は皆、生まれながら原罪をもっています。罪ある世界は神の眼から見たら暗闇の世界です。罪ある人間は死後、裁かれなくてはなりません。真っ暗やみの中を夜、歩くと怖いですね。光が必要です。主イエスと共にあるなら、闇の中を歩まなくていいのです。

 ヨハネ福音書1章5節を見ましょう。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」。私たちがイエス・キリストを自らの救い主と信じ、主と共にあるならば、光のうちを歩むことができるのです。落ち込んだり、悲しんだり、嘆いたりしなくて、喜びの中を歩むことができるのです。そして、最終的な到達点は天の御国です。本当に素晴らしい恵みですね。

 

 皆さんもご存じのように、北海道の三橋萬利(みつはし みつとし)牧師のことが思い浮かびました。三橋牧師は生まれたときから身体に障害のある方でした。脳性麻痺に冒され、両足はまったく機能を失い、歩くのはもちろんのこと、立つことすらできません。右手は全然動かず、左手が少々きくだけの状態でした。そのため、三橋さんは小さい時から「自分は何の役にも立たない暗やみの人間だ」と思い込んで生きて来られたそうです。著書「北国に駆ける愛」の中で、「人間にとって自分の存在になんの価値も意義も見出せないことほど悲しく、辛いことはありません。この悲しさとつらさは、私がイエス・キリストに出会う時まで続きました。」と書かれています。三橋牧師は長い間まったく光のない、孤独で、暗やみの中にいる思いで過ごしてこられました。

 三橋牧師が友人の紹介で聖書を読むようになり、教会に集うようになりました。三橋さんは聖書から本当の神様がおられることを確信し、自分のような不自由な身体を持った人間でも、他の人々と何ら変わらない一人の人間であるという自己の尊厳を持つようになられました。

 以下、著書に、こう記しておられます。

世間一般では、人の値打ちをその人の能力、学歴、財力、社会的地位などによって判断するのが普通です。だからこそ私のような境遇にある者は、いつもセルフイメージを低くしてしまうのです。それまでは「私は何の役にも立たない者だと思っていました。しかし聖書には、「天と地を創造した」神が「人をご自身のかたちに創造され…‥神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。人間を差別せずに男と女とをお造り下さったのです。男と女とを同じ人間としてお造り下さった神の前に、私も一人の人間だということが判った時、私も他の人々とまったく同じ者であることを知ったのです。」

それから彼の人生は暗やみから光の中に移され、生きる喜びが与えられ、神様の恵みを伝える人に変えられたのです。

皆さん、どんな環境の中にあっても、三橋さんのように、いつも主イエス様を見上げ、与えられた人生を感謝しつつ、歩んでまいりましょう。(牧師:北林行雄記)