試みと悪からお救いください マタイ6:13、ルカ22:31~34

 “主の祈り”の最後の祈り「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」について学びます。“試み”は試練のことですが、聖書を見ると“試みに会う”ことは決して、悪い意味に捉えられていません。例えば、詩篇119:71では、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」。また、ヤコブの手紙1:2~4では、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と書いてあります。つまり、信仰者の成長には試練は必要なものであると教えているのです。

 そこで、この主の祈りでイエス様が教えておられる“試み”とは何かを考えてみましょう。ルカの福音書22:31~34で、イエス様はペテロに次のように言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ここで、イエス様はペテロが「麦のようにふるいにかけられる」と宣告されました。これは、ペテロには到底耐えきれない試練で、彼の信仰を根底から覆し、ペテロを破滅させる危険なものでした。そこで、イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈られたのです。

つまり、主の祈りで使用されている“試み”はクリスチャンの信仰を成長に導く試練について言っているのでなく、逆に、信仰を押しつぶしてしまい、破壊してしまうような試練のことです。

 ペテロはイエス様に、「主よ。ご一緒になら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と答えますが、彼はこの後、主イエスを知らないと3度も否認しました。そのときイエス様が振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のお言葉を思い出し、外に出て、激しく泣きました。イエス様の一番弟子と自負していたペテロは、自分の信仰の弱さを暴露する結果となりました。このようなペテロの危機に備えて、イエス様は彼のためにとりなしの祈りをささげられたのです。それで、ペテロは背教の危機から救い出され、初代教会を担う使徒に成長したのです。

 続いて、「悪からお救いください」について考えてみましょう。この祈りは私たちの心に宿る悪と、この世の悪を前提としています。マルコ7:21~23に「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と書かれております。さらに、もう一つの所から悪がやって来ます。それは「この世」です。この世は私たちを罪へ誘い込む罠に満ちています。この世的な楽しみや、巧妙な儲け話などにより、高齢者など弱い立場の人々を狙う事件が頻繁に起きております。 そのような心の内側とこの世の悪に引き込まれないように、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と、毎日祈らなければなりません。ぜひ、皆さんもお祈りしましょう。 (牧師:北林行雄記)

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