祈りは力 ヤコブの手紙5:13~18

 私は網膜剝離と白内障の手術で、2月21日から3月10日まで富山大学付属病院に入院しておりました。このために多くの方々からお祈りと励ましを頂きましたことを、心から感謝致します。

 入院している期間は医者から指定された体位(うつ伏せ、横向き)を守りながら、静かにベッドに横たわっていました。このような状況に置かれてもできることは祈りです。そこで、私は祈りに専念することとし、祈りの力とその恵みも味わうことができました。本日の説教の中でその体験の一部も証させていただきます。

 さて、祈りには次のような特徴があります。

第一に、どんなに身体が動かなくても祈りは可能である。第二に、私たちが祈る相手は全知全能の主なる神様である。この方は私たちのすべてのことが判るのです。それゆえに、第三に、私たちが自分の気持ちを主の前に打ち明けて、真実の自分を表すことができることです。

 では、私たちが祈れる範囲はどれ位あるのでしょうか。祈りの範囲は非常に広いです。健康の事や生活のこと、教会のこと、仕事や職場の事など必要があることは何でも祈ることができます。
 ところで、皆さん、”聞かれる祈り“と”聞かれない祈り“があることをお気付きでしょうか? ”聞かれる祈り“は神の御心に沿った祈りです。例えば、もっと聖書の内容を理解することができるように、自分の信仰や教会が成長するように、自分の家族や友人が救われるようにという祈りです。主なる神はクリスチャン一人一人の信仰が成長し実りある信仰生活を歩むことを望んでおられます。

一方、”聞かれない祈り“は自己中心的な、わがままな祈りのことです。このような祈りは主に喜ばれません。

 ヤコブの手紙5章13節に「あなたのうちに苦しんでいる人がいますか?その人は祈りなさい。」、14節には「あなた方の内に病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」と書かれています。この手紙が書かれた約2000年前は医療技術が進んでいませんので、病気の癒しのためには長老(今日は牧師に相当)を招いて祈ってもらうしかありませんでした。祈りの結果、癒されました。「信仰による祈りは病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」(ヤコブ5:15)。祈ることによって病が癒され、罪が赦されるのです。正しく祈りは力です。

 私は入院生活の中で真剣に祈りの時を持ちました。「なぜ、突然網膜剥離になったのか?」と自分自身の生活のあり方をチェックしました。私は昨年11月から今日まで多忙で休む暇がなかった。そのうえ、教会の新会堂建設に当たり心にかなりの重圧を受けていた。祈りの中で、ピリピ人への手紙4:6「何も思い煩わないであらゆる場合に感謝をもって捧げる祈りと願いによってあなた方の願い事を神に知っていただきなさい。」との御言葉が示されました。『思い煩ってはならない。全知全能の主に委ねて主の導きの下に平安に歩もう。会堂建設は神の業であり、神が責任を持ってくださる。』こう確信すると心に言いようもない平安が与えられました。感謝!!

 また、私が病気になったことは、大きな恵みをもたらしました。役員をはじめ教会員皆の会堂建設に対する自覚が高まって、新会堂建設のためにより熱心に祈り、かつ奉仕分担を申し出る兄弟姉妹が起こされ、教会の一致が一層強くなりました。主は万事を益として下さること(ローマ8:28)、神のなさることはすべて時にかなって美しい(伝道者3:11)のです。  このホームページをご覧の皆様にお願いします。私たち富山聖書教会の新会堂建設のためにお祈りと御支援を宜しくお願い致します。皆様の上に主の豊かな祝福がありますように!  (牧師:北林行雄記)

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