父なる神の十字架の計画 マルコの福音書12:1~12

イエス・キリストがエルサレムに到着されると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやってきました。そこでイエス様は「あるぶどう園のたとえ話」をされました。

マルコの福音書12章1~2節

「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り。見張りやぐらを立て、それを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので,ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。」

 ところで、ぶどう園を造るには数多くの労苦が注がれなければできないことです。

先ず、ぶどうが育つ畑作りが必要です。テラロッサと呼ばれるぶどうに適した上質の土がありますが、その土に混在している岩や石を取り除きます。次に、取り除けた石や岩で、畑を囲う垣を巡らします。その垣に茨などを垂らして,山羊などの動物が畑に入れないようにします。続いて、見張りやぐらを建て、酒ぶねを掘って収穫に備えます。最終的に、ぶどうの木を植えて収穫するまでに少なくとも2年、普通は4年ほどかかります。

 これほどに苦労して建設したぶどう園を農夫たちに貸して主人は旅に出ました。大変な苦労を考えれば、主人がぶどう園の収穫の一部を期待することは当然なことです。

 ところが、農夫たちは、主人から遣わされたしもべを打ちたたき、何も持たせないで送り返しました。その後、主人は何度も別のしもべたちを遣わしましたが、しもべの頭を殴って辱めたり、打ちたたいたり、殺したりしたのです。

 主人は最後の手段として愛する一人息子を遣わしましたが、彼らはその息子をとらえて、殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。

彼らは一人息子を見て「あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。」と考えたからです。

イエス様はこのたとえ話の最後に「ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるでしょう。」(マルコ12:9)と結ばれました。

 このたとえ話の、「ぶどう園の主人」は天地万物の創造者、主なる神であり、「ぶどう園」は神が創造された自然界や全人類です。また、「農夫」は神の特別な教え“十戒“を受けてそれに養われた人々、つまり、ユダヤ人であり、その指導者たちの事です。

マルコの福音書12章12節に「彼ら(祭司長たち、律法学者たち、長老たち)はこのたとえ話は自分たちを指して語られたことに気付いたので、イエスを捕えようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。」とあります。

なお、マルコの福音書12章10~11節はイエス様が詩篇118篇22~23を引用されて、ご自分が「家を建てる者たちが捨てた石」となり、たといユダヤ人の指導者が反対し、見捨てても、主なる神はご自分を新しいイスラエルを建設するための「礎の石」とされることを表明されたのです。

 イエス・キリストの十字架の死と復活がここに暗示されているのです。

 ぶどう園の主人は愛するひとり子が殺されることが判っていても、何故あえて一人息子を農夫たちの元に遣わされたのでしょうか?

私は一人息子が小学校に入学するや否や近所の6年生にいじめられて苦しんでいる子を見て本当に悩みました。そのいじめは執拗で、その上級生が県外の大学に行くまで約7年も続きました。

そのため、心に大きな傷を負った我が子が回復するまでに、小学1年から高校3年までかかりました。本当に長い苦難と忍耐の時でした。

我が子を虐待されて殺されることは親にとって耐えがたい悲しみであり苦しみです。

たとえそうであっても、主なる神は罪人を救うために愛するひとり子を犠牲にされたのです。 神のひとり子イエス様は罪のない方です。 罪のない方が罪人の身代わりとして死んで下さらない限り、人類の救いはありません。イエス・キリストの十字架の死と復活はそのためにあるのです。

 神は愛です

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し宥めの捧げものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一4:10)

 神の愛に感謝して、皆さんの家族や親しい人々の救いのために祈り、福音を伝えていきましょう。            (牧師:北林行雄記)

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