信仰者の一つの願い 詩篇27:4~6

詩篇27篇はダビデがサウル王から妬まれ、生命を狙われる危険な状況下で詠まれたものである。主なる神を信じるダビデは一つのことを主に願った。それは、「私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)。つまり、ダビデは自分の生涯にわたり、”主の家“(全知全能の主なる神が臨在される所)に住むことを願ったのである。そうすることによって、主の素晴らしさに目を留め、思いを巡らして、主なる神の愛と恵で満たされる。

 その根拠は、「主が、苦しみの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を引き上げて下さるからだ。」(5節)。

ダビデは危険になった時に、いつも主が守って下さった体験があった。彼が絶体絶命の危機に直面した時、主は彼をひそかな隠れ場にかくまい、敵の居場所よりさらに高い所で、難攻不落の岩の上におかれた。(6節)。確かに主と共にあれば安心なので、主に喜びのいけにえを献げ、主にほめ歌を歌うのであった。

今朝は、特に「混血児の母」として世界的に知られ、エリサベス・サンダースホーム園長の沢田美喜の証を紹介して信仰に生きる素晴らしさを共に味わいたい。

沢田美喜は三菱の創業者岩崎弥太郎の孫で、大財閥の令嬢として何不自由なく育った。彼女は生まれつき利口で、男まさりであったが、心の優しい人であった。小学校の時、学校の帰り、孤児院を見つけた。それは暗く陰気な建物で。その窓から一人の少女が首を出して、うつろな目で美喜をながめていた。その目は何と悲しげで絶望的だった。それが、美喜の心に長く突き刺さっていた。

女学校時代に聖書を読み、キリスト教にひかれたが、家の人は大反対した。岩崎家は昔からずっと真言宗を守って来たからであった。沢田廉三というクリスチャンの外交官と結婚し、ロンドンやパリ、ニューヨークなどに住んでいるうちに立派なクリスチャンになった。

1945年、太平洋戦争が終わり、敗戦国日本にはアメリカ人の兵士と日本人女性との間で生まれた混血児が列車の中や駅の待合室、公園等々にたくさん孤児として捨てられた。

美喜はそれを見て、混血児たちを育てる決心をして、1948年、47歳の時にエリサベス・サンダースホームを神奈川県大磯に設立した。彼女は混血児たちをすべて受け入れ、ひとりとして拒んだことはなかった。そのため、毎日増えて行く孤児たち。それに比べてお金の方は少しも入る当てがなかった。主が必要なものを与えて下さる確信(マタイ

しかし、彼女はマタイの福音書6:31~33に励まされて『もし、この仕事が神の御心であり、自分の使命であるなら、必要なものはすべて与えられる。』と信じ、何も思い煩わなかった。すると、これほどひっ迫した事態の中にあっても、神によって守られているという安心感が与えられるのであった。

ホームの経済はいつもひっ迫していた。そのために、美喜はふつうの女の人のように洋服を買ったりできず、いつでも同じものばかり着ていた。ホームの子どもたちが「ママちゃん、かわいそうだね。僕たちのために貧乏になり、皆から悪口を言われるようになった。」とひそひそと話しているのを聞いて、美喜は、子どもたちを固く抱きしめて、「いいんだよ。何もなくてもママちゃんは幸せなの。」みんながいるから。この世で一番強いのは愛なんですよ。いつでも隣の人、お友達を愛する心を持っているなら、何も怖がることはないの。」と言い聞かせた。

沢田美喜は1980年78歳の時休養のつもりでマジョリカ島に旅行中、突然倒れて、帰らぬ人となった。彼女は本当に主なる神と共に歩んだ人だった。どんなにつらい時であっても神の愛に満たされ、神の守りと導きの中を歩んだのです。それゆえ、皆さん、いつも主の家に住むことを祈り求めて行きましょう。    (牧師:北林行雄記)

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